28 1月
島田雅彦と村上春樹を読んだりしたので、小説の話をしてみます。上手く書けるといいんですが・・
読んだのは、天国が降ってくる (講談社文芸文庫)
と1Q84 BOOK 3
です。
どちらも良い小説だと思いました。
良い小説の条件ってなにだろうと読みながら考えてしまいました。まずはセンテンスが簡単であること。翻訳物の本だとなかなか上手くないですが、小説はまずこれが必須条件なのだなと思います。島田雅彦も村上春樹も難解な感じですが、実はセンテンスがシンプルで、さらさらと読める。正直すごいと思いました。
その次は何だろう?。全体で物語っているものは複雑なようで実はさらに簡単。天国が降ってくる (講談社文芸文庫)
は大人になりきれなかった子供が自殺する話。1Q84 BOOK 3
は、子供の時に知り合った男女が大人になって再会して抱きあう話と、無闇に要約することができる位。物語られているものはシンプルです。
でも、この2つの小説は、物語っている文章と、物語られているストーリとの間にあるもの(なんだそれは?)が、すごく違っているような気がします。島田の作品は何かザラザラとした感じ。最近の感じで言うと雪が凍って道をあるくのがままならない感触。なんか上手く歩けない酔っ払いで、いつ転んでもおかしくない感じ。村上の作品はツルンとした感じ。凍った雪の上を素面で用心しながら歩きながらも、実は冷たい空気が快感だったりする感じに似ています。正直、村上の小説の方が居心地がいいですが、島田のどこか他人の家に上がりこんだような違和感もおもろかったりします。
「物語っている文章と、物語られているストーリとの間にあるもの」って実はずっと気になっているキーワードでした。シンプルなセンテンスが頭のなかに入ってきて物語の空間を作ってくれて、それを気持ち良いと感じたり、気持ち悪いと感じたり。音楽もメロディー・ハーモニー・リズムという文章のセンテンスにあたるような小さい断片があって、それが鼓膜を通して頭の中に入ってきて、心地よかったり、緊張したり。
小説の楽しみ方って実は音楽の楽しみ方と通じるものがあるのかもしれません。
相変わらず理屈っぽいBlogですまん。Eric Dolphy in Germany
を聴きながら書いているせいかもしれません。(しかし音が悪いなこのCDは・・・
)
では、また。
23 1月
今、“The Cure”
を聴いています。Keithらしいとても良い演奏です。何がよいのか?っていうと・・・あんまり説明ができないです。何か難しいことや新しいことやっているわけでもなく、Trioのメンバー全員が音楽に没入している感がひしひしと伝わってきます。
ということで、ちと反省です。昨日のPatの話もそうだし、正月の前後の原発の話にしてもそうだし、なにか物事のDark Sideに目が向いていたような気がします。浅田彰や島田雅彦の本を読んだりしたせいもあるような気がしますが、どうも物事の悪いところばかりが目についてそこを一生懸命説明しようとしている感がなんか違和感がありました。けど、このKeithの演奏を聴いていて少し覚醒した感があります。Internetなんて所詮は便所の落書きだという話もよく言われることですが、便所の落書きにしても、見ている人を元気にPositiveにする文書というのがあるはずで、その点やはり言葉で勝負をしてきた糸井重里なんてネガティブな面がなくかといって無味乾燥でもなく伝えるべきメッセージのある文章を書いてくれています。こういう文章がかけるようになってから音楽、映画、文学を評価するべきなんだろうな。と正直反省です。
こんな反省文を書いている時点で書いている内容と矛盾がある感は満載ですね。今日は仕事があまり成果なかったせいかもしれません。これからの残りすくない今日をKeithの音楽と、村上春樹の“1Q84 BOOK 3″
を読みながら反省の時間を過ごすことにします。
つまらん文章に付きあわせてすまん。
では、また。
09 1月
正月に帰省している間にも図書館のHPは運用してくれたので、実家から何冊か予約しておいて、帰宅の時期に予約完了のメールが来たので、数冊借りました。その内の一冊が、
amazonでも値段が付かない位古い本になってしまいました
。学生時代には難しくて最後まで読めなかった本です。ちょっと軽くカミングアウトすると浅田彰(ニューアカってもう死語ですかね?)の本は最後まで読めたのはないんです
。でもなんと今回は最後まで読めましたね。どうもこの年になると分からない言葉は適当に相槌を打てるようになって、文章の雰囲気を読めるようになったのか?それともナナメ読みができるようになったのか?いづにしても少し学生時代の空気というか、雰囲気に酔ったのかも知れません。昨日この本のニーチェの話題のところで盛んにワーグナーの話が出てくるので、その時にいた柳沢の図書館でワーグナーを2枚を借りまして、これを聴きながら読んだもの読破の要因だったかも知れません。借りたワーグナーのCDは、こちら、
こんなのを聴きながら、今朝から続きを読みましたがなんか久々のクラッシクということや難しい本を読んだせいか・・ちと疲れました。お昼後を食べた所で武蔵野の図書館に出かけて、いつものJazzのCDを借りました。
やっぱり、こちらの方が性に合っています
。”sing Jobin”のBreckerのテナーがバリバリJazzしていながらBossanovaのラインに綺麗に乗っていることや、ElianeのBill Evans曲集にゾクゾク・ワクワクするのが嬉しい。体質的にはやはりこちらの方が合っているのかも知れません。
例によってとりとめないですが、
では、また。
07 1月
年末年始の帰省の間に読んだ本のことを書きます。
例によってamazonのリンクですが 
というような本を読みした。
最初の”夜と霧”は名著です。旧訳の本が実家にあるのは知っていたのですが、あまり考えもせずに新訳版を図書館で注文しましたが、ドイツのあの一連の事件はこうやって追体験することでも十分な迫力があります。日本でも戦前戦後を通じていろんな事故とか事件があったような気がして、その一頁に埋もれてしまうのはいけないことだなと思います。
次の”原発のウソ”は、実は後の”東電崩壊”の後に読んだのですが、著者が原発反対派であることを自認しているように偏っているかも知れません。が、福島の事故が”レベル7”という評価を受けた今となっては現段階では著者の現説に説得力があるように感じました。まだ原発の事故の余震のような話もあり、現在進行形の部分が多々あります。ただ現在進行形だから判断保留というわけにも行かない家族の健康の問題に関わるという意味では、あまり悠長に構えているわけにも行かないのが、もどかしい現状ではあります。
最後の”東電解体”は、東洋経済の本らしく実に東電の経営上、社会上の問題点を明らかにしてくれています。一点気になるのは、「規模の経済」に対して「ある一定規模を超えた規模は不経済」というフレーズを多用しているところでした。実は知りませんでしたが、日本は世界一高い電気料金を払っているそうで、地域独占、発送電一体型の経営をしている東電という企業は”ある一定をこえた規模”の領域に踏み込んていたのかも知れませんが、この”一定を超える”という表現・主張があまりに恣意的で、これが行き過ぎると歯止めが利かなくなるのではとちょっと心配になったりもしました。原発を推進するにしても撤退するにしても、これまでのようなスピード感では困ります。推進・撤退のいづれかのチョイスをするにしても”ある一定の規模”必要になるのでは?というのが心配の元です。その一方で”一定の規模”に我々の税金が使われることにも得心がいかないという正直な気持もあり、東電の(実質的な)国有化という判断は、消費税を云々する以前に選挙による判断が必要な事項ではないかとまで思ってしまいます。
相変わらず理屈っぽいBlogですまん。
では、また。
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